昭和五十六年六月五日 朝の御理解
御理解第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても腹を立ててはならぬ。盗人をして居らねばよし。乞食じゃというても貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく観ておる。しっかり信心の帯びをせよ。」
大きな願いを立て、大きなおかげを頂きたいと思えばいよいよ豊かに大きくならなければなりません。大きい願いだけを持って豊かになる事も、大きくなる事も努めようとも精進しなかったらこれは願いだけに終わってしまいます。そういう大きな願いを立てるというだけではなくて、大きな願いが切実に願わずにはおれず、為にはどんな修行もいといませんというものが、伴わなければならんのでありますね。
どうぞどうぞおかげを頂きますようにと、ならおかげを頂きます為にはそのおかげの頂けれる、やはり力も受け物も受けなければならないように、まあ今日の御理解を頂いておりますと、そういういよいよ神様が大きくもして下さろう、力も下さろうとする働きの中に極端な言葉で表現しとられますように盗人と言われるような事があっても乞食じゃと言われるような事があっても、それに一々腹を立てたり、それで挫折したりするような事があっても、大きくも豊かにも成れませんよね。だからそういう、云うならば悪口とか障害こそがいよいよ豊かに大きくなる事の為の信心なんです。受け物を作る事なんですね。おかげを頂きたい。
昨日は神愛会でまあ熱心な先生方の一人一人の発表お話しを聞かせて貰いましたが、昨日は初めてあの秦先生が司会をいたしました。司会を致します前に自分が合楽に御縁を頂くまでの話を、もう四国という所は非常にこの熱心な御信者、先生方が居られる所ですが、秦先生も又本当に素晴らしい修行精神を持った先生です。
教会に生まれて教会で先生方のすさまじいさまざまな、特に四国という所は表行が烈しい所です。ですからどうしても本当の、いうならば神様を頂きたい、力も受けたいというのでさまざまに心を練り、又修行もさまざまな修行をさせて頂いた話をしておりました。最後にはあの私共が大阪に講演に参りました時の私の話と、それから泉尾の先生のお話しを頂いて私の話にはあんまり感じなかったけれども、泉尾の先生のあの迫力には押された。どうでもひとつ泉尾の先生の信心を頂きたいというてお願いして一年か二年か修行致しております。そうしとる中に改めてあの「天の心、地の心」私がお話ししたそれを本になりました。その御本を読ませて頂いている時に、それこそ異常なまでの感動を覚えた。
どうでも合楽、合楽にどうでも修行させて頂きたい。こりゃこれを読ませて頂いとると金光教の信心はもうこれに極まったという所まで行ったんです。そしてそれから起きてくるところのもう神様の働きというものはそりゃもう本当に話にすりゃそうでもないでも、私は聞きながら神様の働きてすさまじいなあと思いました。
弁当屋さんの看板 会合(かいごう)を縦に読んで 合楽会行(あいらくえいく)です 行楽(こうらく) よ。
昨日その事も話しておりましたが、兎に角、合楽行きの大きなポスターを見た。大きなポスターを大きく書いてある。そりゃ勿論外の事でしたけれども、この合楽の会うという字に合楽の楽をそのまま合楽と、外の意味だったそうですけれども、そのポスターを見ていよいよ決心がついた。その間にいろいろと神様の特別な働きを受けてまあ断然とそのまあ合楽に修行。しかも例えば泉尾では1年間修行させて頂きます。足りんから又1年させて下さいといったような修行であったけれども、合楽に参りました時にお届けされましたがもう兎に角、無期限、神様のお許しの頂けるまで本当の力の受けられるまであの修行に取り組みたい、取り組ませて頂きたい。まあ皆さんも御承知のようにもう本当に人の真似の出来んような、いわゆる火の行、水の行こそしませんけれども、火の行、水の行にも匹敵するような合楽的修行に取り組んでおるという話である。
もう本当に合楽で言われる黙って治めるといったような修行はもう大変な修行だと、取り組まなければ実際分からない。その修行の内容についてもいろいろ、まあだ私はもう1年になるかと思うたらまだ半年余りしかならないそうですけれども、本当に素晴らしい事だなあとね。合楽の信心を、いわゆる実験実証しながら、いわゆる大きな願いを立てておるからこそ、そういう修行も又いとわないですよね。
大きな願いを立ててそしてその修行をいとうなら今言うように、これはここでは極端な馬鹿とか阿呆とかと、いやそれ以上の云うならば修行がですね、それを云うならば黙って受けるとか有り難く受けるという時に初めて心が豊かにもなった大きくもなったという事になるのじゃないですか。そこに私は最近よく頂きます教祖様のあらたな御教えが今いろいろ発表されている中にこれを渕上先生がもう数カ月前に書いて来てくれたこの事を思うのです。正確なところを「人民の為、大願の氏子助ける為身代わりに神がさする。金光大神比礼の為書とめ」人民の為、世界総氏子の為というてもいいでしょうね。大願の氏子。だからその大願、私共が大きな願いを立てるそしてそれがです、ただ大きな願いを立てるだけではなくて、それに取り組む姿勢というものが出来た時に大きな願いを立てた氏子と神様は見て下さるのじゃないでしょうか。
大きな願いだけなら天下国家の事でも誰でも願いが出来ます。総代さん方が毎日お届けをするお届けをしておるそのお届けそのものは大変な大きな事です。けどもその内容がなかったら駄目です。これだけの事をお願いをしておるんだからこの位の信心はこの位の修行は当たり前としてその修行に取り組まなければ、それは空本、私共大きなおかげが頂きたい。為には大きな願いを立てる為ならば私共がそれこそ秦先生じゃないけれども、どんな修行でもいといません。
合楽ではいわゆるどんな修行でもというても、云うなら表行、いわゆる火の行とか水の行といったようなものは全廃で出来ないという事になっとるからそれに匹敵する程しの修行をさせて頂きます。その修行の中身にはもう本当にもう堪えられないような修行もあると言ってます。特に黙って治める、腹を立てんといったような事はていへんな修行だと。これをやりぬくという事は、やって出来たり出来なかったりじゃもう修行にはなりません。大きな願いを立ててもその願いがねがいとして受けて下さいません。
大きな願いを立てると同時にその大きな願いを立てる、その替わりにはという訳でもないですけども、その為の修行ならばいといません。その為の修行を合楽ではかくせよ、ああであらなければならないと言われる修行に取り組んでいく。そこに初めてね、云わば人民の助かり、云うなら世界総氏子の助かる事の為の大願の氏子という事になりましょう。
神様の願いである総氏子の助かりという事を願っておられる。その氏子の助かりを本気で願う、云うならば教師とでも申しましょうか。又は信者とでも申しましょうか。が、あってその為の修行なら厭いませんという、云うならそういう修行が出来た時、初めて金光大神身代わりというような働きが起こってくるんだと思うのです、ね。私共のさまざまな特に今問題の中にある合楽の信心を頂くという事には非常なやはり障害があります。
御本部から月に二回づつお参りしておられました宮田先生が、いわゆるこれは先輩の先生方から、あんたが合楽通いをしておるという事は分かる。けれどもこういう時期だから遠慮した方がよくないかというて、まあ注意を受けた。それで渕上先生はここがまあ出里ですから親教会ですから、毎月参って来る訳ですけれども、云わば関係のない教会にしかも本部から合楽に月に二度も参って来るといったような事は控えられたがいいと云うふうに、自分は止むに止まれないものを持っているけれども、そん時一番最後の時に先生が言っておりました事を思うですけれども、私にとっては岡山そして合楽はそれこそシルクロードの道ですと言ってました。
大変なやはり至難な難しい事ですけれども、それを押し切って参って来ておったけれども、お仕事の上の上の先輩の先生方からそれをまあ受けてまあそれで毎日渕上先生が参って来る度にお初穂だけをことづけてまあおられるような事ですが、そういう云うなら障害があるわけです、合楽に。合楽という所は。それはね、私共が大きな願いを持てば持つ程、立てれば立てる程、簡単、平易、容易という事はない。大きなおかげの受け物を作らなければならないから、そん為にはなかで乞食と言われるような事もあろう、泥棒もしとらんのに泥棒と言われるような事もあろうけれどもね。
そこを私は貫かせて頂く精神が出来たところから、そして又その為の修行ならいといませんという修行の覚悟が出来た、構えが出来たところから神様は、金光大神を身代わりに立ててでも、信心は例えば本当の事が出来なくても出来たかのようにしておかげを下さるという働きが生まれてくると思うですよね。 どうぞ。